私を産み、育ててくれた母(佐々木澄子)が2021年1月10日(日)17:21に命を閉じました。享年91歳でした。
母が脳出血で倒れたのが2010年12月。病院、リハビリと続けて2011年6月に一度家に帰ったのですが、3日目に再度の脳出血。再度病院・リハビリ後、2012年1月より施設で暮らすこととなりました。施設に暮らすようになると2ヶ月で歩けなくなり、その後は車椅子とベッドでの生活となり、2016年くらいからは声も出なくなりました。でも、耳は聞こえるし頭もしっかりしていたので、私のほぼ毎週の訪問時には、たくさん話し、歌い、全身に触れて体を整えてきました。母は私の話に笑い、楽しい時間を過ごしていました。
しかし昨年2月の緊急事態宣言からは、一切訪問ができなくなり、・・・
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9月に「高熱が出たので救急車を呼びました」と施設に呼ばれて病院で少し会ったのが7ヶ月ぶり。そしてその時からは、点滴だけの生活となりました。前日までは安定していたのですが、10日朝7:00、急に血圧が下がっているので会いに来てください、と電話があり駆けつけたのが、最後の日となりました。
母は、最後まで美しく、気品がある、周囲への思いやりに溢れた女性でした。
とても穏やかに息を引き取りました。
母からの最後のギフトが、1月10日(日)という日でした。
通常は週末も仕事が山積みの私ですが、この日は別の案件があり、終日仕事を空けていました。
アメリカに住んでいる息子も、帰国していました。家族全員が母の手を握り、愛を伝え、終日一緒にいることができる日を選んでくれたのです。愛と優しさにあふれる時間でした。
母は5人兄弟の長女で、横浜で育ちました。
母より先に旅立った次女はアメリカに暮らし、妹一人、弟二人は横浜・藤沢で暮らしました。
それから、長野ヴィラデストを作られたエッセイストの玉村豊男さんは、母のいとこで、玉村さんのご活躍を、いつも喜んでいました。葡萄の木のオーナーになったり、ヴィラデストを訪ねることを毎年楽しみにしていました。
母の母は若くして亡くなり、父は外国船の船長だったといいます。数ヶ月に一度戻ると持ち帰る「西洋」のカラフルなドレスや赤い靴は、とても恥ずかしくて身に付けることができず、靴は泥で黒くして履いていたと聞きました。学校では成績優秀で常に学年でトップ。優秀賞の鉛筆を毎年もらった、と笑っていました。
母は洋裁が上手で、1ミリのズレもない素晴らしい服を縫いました。洋裁学校の先生も、自分の服は母に頼むというほどの腕でした。私が学生だった頃は、二人で海外のファッション雑誌を見て、私がデザインを書き、母が型紙を作り、縫う。そんなことをしていました。晩年は人形を作ったり、キルティングをしたりと器用にいろいろ作っていました。そう、私の娘の保育園でのシーツも、パジャマも、手提げ袋も、母の手作りでした。私の大学卒業式のドレスも。
ダンスが好きな母でした。NHKのステージ101(古い!)を見ては「あんなふうに踊る人になりたかったのよね」と言っていました。ラインダンサーもしたかったとか。50歳頃から社交ダンス、フラメンコ、ジャズダンス?などを習い始め、発表会では、いつもセンターだったみたいです(笑)。
ガーデニングも好きな母でした。少し枯れた植木でも母の手にかかると元気になる。いつも庭いじりをしていました。クリスマスローズ、白のミニバラ、オキザリス・トリアングラリスなど、いろいろ育てていました。
母はいつも前向きで、座ることのない女性でした。私が中学に上がる頃には一家が財産をなくし小さな供給公社に引っ越したりと「苦労」をたくさんした母ですが、休むことなく、弱音も悪口も言わず、毎日笑いながら、懸命に仕事をしていました。
「ハイカラ」な母でした。
私が子供の時は、おやつはアメリカンチーズ。朝ごはんとランチは、ほぼ毎日、ハーシーのチョコレートシロップとスキッピーのピーナツバターを塗ったサンドイッチ(笑)。・・・今思うと野菜なしのバランス悪い食事です:笑
・・・語りたいこと、残したいこと、たくさんあります。
とても悲しく、寂しいのですが、でも、母が倒れてから10年間、私は、母に対してできることを全て尽くしましたので、落ち着いています。ゴスペルの仲間たちとも母の施設で2回、歌うことができました。母が涙して聴いていた姿を思い出します。歌ってくれた友人たちに心から感謝をしています。そして高熱で点滴となって4ヶ月。命の終わりが遠くないことを覚悟してきました。こんなふうに心の準備の時間をくれたのも、母の愛情だったのだと思います。
母は、私の子どもたちの面倒もよくみてくれました。私が長女を小学校に連れて行く時には、母が息子を保育園に送りに行ったり、小学校に上がると、お弁当を作ったり、駅まで送りに行ったり。しかし母にお礼を伝えると、「かをりちゃんのためじゃないからね。かをりちゃんの会社の社員の方のためだからね」とキッパリ。常に周囲に感謝をしながら生きてきた母。感謝することを教えてくれた母。今もう一度、心からの感謝を伝えたいと思います。
そう、プロゴルファーが優勝インタビューで「はい、一生懸命頑張りました」と答えているのを料理しながら聴いていた母は「当たり前よね。誰だって頑張ってるわよー」と笑っていましたっけ。母は、どんな時も、静かに笑顔で、前進していました。
一つだけ、私がしたかったことは、母へのインタビューです。
どんな少女だったのか。
どんな人生だったのか。
どんな家庭に育ったのか。
何を思っていたのか。
・・・
母は、私の子供の時の作文や絵さえもどんどん捨ててしまう人で(笑)、過去の話を一切しなかったので、あまり母の人生のことを知りません。父も母もいなくなり、母の兄弟もいなくなってしまった今になって、残っている親戚の方々に連絡を取り、ファミリーヒストリーを取材し、書き残し始めました。
これを読んでくださった皆さん、ぜひ、ご両親にインタビューしてくださいね。ただ日常会話するのではなく、これまでの人生のこと。どんな人たちに囲まれていたのか。何を考え、感じてきたのか。ぜひ聞いて、書き留めておいてください。自分の年齢が高くなってから、その大切さを感じることでしょう。
母が旅立って、もうすぐ1ヶ月です。母は、天高くに暮らしているでしょうか。
きっと穏やかに妹や知人とガーデニングを楽しみ、ゆっくりお茶を飲み、時にダンスをしているのかもしれません。ビートルズの Let it beが、母のお気に入りでしたっけ。
私は、父に、母にいただいた命を大切に、笑顔を大切に、感謝を大切に、毎日を大切にしていこうと思います。読んでくださって、有り難うございました。
母に愛を込めて。 佐々木かをり
Posted by kaorisasaki1 at 17:10│
Comments(3)
ステキなお母さんだったんですね。文章からビビッドに伝わって来ました。そして、心が落ち着きました。僕の両親は二人とも若くして亡くなりましたが、二人がどんな人生を生きて来たのか、自分が年齢を重ねたせいか、知りたいと思うようになりました。